はちみつと焼酎

BTS 방탄소년단/SUGA. 日本語訳など

愛が愛だけで完璧でありますように/CINE21コラム

 

映画雑誌CINE21のコラムが良かったので訳してみました。

愛が愛だけで完璧でありますように:「FAKE LOVE」 (BTS、2018)


ボクギル(コラムニスト)

人間のすべての行動を「MBTI」で分析する風潮には反対する立場だが、ある種の葛藤はMBTIがなかったら永遠に解決できなかったという気もする。

人間が「P」(認識型)と「J」(判断型)タイプに分かれるということを知らなかった時を考えてみよう。

旅行とは、「分単位でトイレに行く時間まで計画する人」と「ただ時間の流れに身を任す人」が互いに「あいつは何がしたいんだ?」と果てしなく質問し合う戦いだった。 しかし、今はどうだろう? Jの自負心を持った友人が「計画樹立」という自分の宿命を喜んで背負えば、Pは可愛いふりをして厳格なスケジュールのなかで息抜きをする役割を果たせばいい。

もし葛藤が生じても「あの子はPだからだ」「あの子はJだからだ」という言葉で状況を収拾できるので、MBTIは相手に対する理解をあきらめながら、むしろ相手を包容できる不思議な規格であるわけだ。

しかし、依然として私はMBTIテストでは見つけられない人間の予測不可能な面が好きだ。 一人の人間が人生の様々な変数を経験しながら、自分も知らないうちに作り出した人生の独創的な曲がったものやおかしな形の愛のようなもの…。

セミに会う前の2009年には、私がそんなものに魅了されることを全く知らなかった。 セミは、青少年ボランティアプログラムで会った私より3歳年下の家出少女だった。彼女は主に合井駅周辺で友達に会って一日を過ごし、24時間運営されているスーパーとチムジルバンで衣食住を解決するホームレス少女だった。

お金がなくなると、たいていは友達と帰りながらガソリンスタンドのアルバイトをしたが、たまにはこっそりと家に入って両親のお金を盗んだり、たまにはよく知らない人たちにお金をもらってご飯を買って食べたりした。

千戸洞に住んでいたセミが合井まで来るようになった理由はただ一つ、そこにYGエンターテインメント社屋があるからだった。

「お姉さん、合井に行ってみる? 本当に楽しいよ!」

私はお手上げでセミに引っぱられて一日YGの前で「サセン」をした。 セミは建物の前にあるコンビニで食事を済ませ、知らない人の家の前でタバコを吸い、建物の前に駐車された車の後ろでうずくまって化粧をした。

セミとサセンの友人たちはYGの駐車場を眺めていたが、ワゴン車が入ってくると興奮してあちこち走り回った。 そして、社屋の前を通る通行人を見ながら、彼が練習生なのかどうか、その人物がビッグバンのマネージャーなのかどうか、その人がG-DRAGONの隠しておいたガールフレンドなのかどうかを推測するのに一日を費やした。

私はそれが全然面白くなかった。 その時間は非常に気まずくなり、言葉では言い表せないほど虚しかった。 私は内心セミが私と同じ思いを抱えながらも、ここで形成された友人関係のせいで、この生活を手放せないのではないかと疑った。

「G-DRAGONがどうして好きなの?」私は何も考えず質問を投げた。 ところが、セミは思ったより簡単に答えた。

「かわいいし、天才」と。

私はまた質問した。 「いつからG-DRAGONを追いかけるようになったの?」

セミは再び可愛くて天才的な返事をした。

「公開放送で私と目が合ったんだけど、その時、口にシャボン玉がすっぽり入ってくる感じ? その時からずっと…」

セミはこれ以上聞くなと言わんばかりに、もう一度付け加えた。

「今はこの子たち(BIG BANG)が私の人生の全部」

 

私たちは最後にお互いのボランティアスコアを満たした後に別れた。 私はセミの事情が何なのか最後まで分からなかったが、学校と家庭を勝手に抜け出した非行少女がどんな風に自分の愛を育て、そこに献身するのか、この目ではっきりと見た。

彼女の愛は現実から逃避するための手段であり、現実から逃避させる目的でもあった。 誰かが精巧に置いた罠に自ら足を踏み入れた彼女は、罠をかけた人に少しの包容力と真心があることを祈り、毎日さらに深い罠に陥った。

いつの間にか周囲から指差されるほど愛の形は歪んでいたが、彼女は止められなかっただろう。 偽の愛であっても、それは人生のすべてだったから。

 

2018年、BTSが「FAKE LOVE」を発表した時、私は初めてこのワールドスターたちに人間的な興味を持った。

アルバムが発売された時期は、彼らが北米チャートを席巻する直前で、すでに実力、人気、認知度のすべての面で絶頂を迎えた時期だった。 アルファベットソングを出しても世の中が歓迎するタイミングだったのに、突然ここまで暗いエモ(EMO)スタイルのポップスを、それも「叶わない愛」について語る曲を出すなんて!何をしてもいい時だから、極端に走ったんだろうか? その無謀さが限りなく刺激的だった。

ファンの間ではどんな解釈があるのか分からないが、私はこの曲がアイドルという幻想の中で、アイドルメンバーたちとファンが感じる混乱を表現したように感じられる。

この歌は最初から最後まで絶叫だ。 歌い方だけでなく舞台構成、ミュージックビデオ、ダンスすべてがそうなのだ。

その絶叫はまるで、お互いに目的のない純粋な愛を誓ったのに、愛が守ろうとするものに介入してくる様々な目的のせいで、関係が危うくなる過程を表現したように見え、聞こえる。

自分の愛がただ一つの愛で完璧になることを祈りながら。その愛の後ろに純粋でないすべてのものが隠されることを願いながら。

ミュージックビデオでVが持っている携帯電話が砂粒になって消え、ジョングクが走る床が崩れ続ける場面もやはりそのような気分をほとんど直接的に比喩したもようなものだ。

 

しかし、Kポップの真正性は、誰が何と言っても舞台で完成するものだ。 「それで一体何が言いたいの?」という歌への質問は、舞台の最後のパートで答えになって帰ってくる。

「愛はひどい」と泣いて挫折し、「何が愛だよ」と冷笑した彼らは、歌を終えながら舞台の中央に集まり、体で一つの花を作る。 幻想か現実か、全く区別ができない形の愛の中で、お互いを疑い、裏切り、憎みあったアイドルとファンは、それでもお互いが分け合った愛の瞬間だけは確かに本気だったと信じて、咲かない花を育て、咲かせたのだ。

 

「オタ活」をしていると、しばしば「アイドルとファンが分かち合う愛は本当(Reality)だろうか?」という質問にぶつかる。

私はしばしば、それは当然、徹底的に作られた「虚像」に過ぎず、その無駄で消耗的な活動を直ちに止めなければならないと主張するが、私の主張が強くなればなるほど、忘れられないオタ活の思い出が「本気?」というように私の後頭部を殴ってくる。

アイドルとの愛は、双方がやりとりしているように見えるが、厳然として1対多数の愛だ。しかし、その時ファンが届ける感情を全て虚像と言い切るには、その感情と経験の実体が確かに存在する。

「アイドルは極めて戦略的に企画された商品」という定義も、愛を否定できる完全な根拠にはならない。 ファンはその産業に包摂された存在だが、彼らがアイドルに魅了された背景と理由には、十分に掘り下げる価値のある個人の経験があるからだ。

 

複雑な構造の愛を、単なる虚像として片付けてしまえば誤りが起きる。

K-POP産業とK-POP文化にはそれぞれ原因が明確な問題が多い。 しかし、これらの問題を明らかにするために、確かに存在するはずの「愛」を否定してしまえば、その問題はいつも原点に戻ってくることになるだろう。

だから、たまには質問を逆に投げかけてみよう。

アイドルとファンが分かち合う愛が「本物」ではない理由は何だろうか?さらには、「本当の愛」とは果たして何だろうか?と。