はちみつと焼酎

BTS 방탄소년단/SUGA. 日本語訳など

ルセラフィムのコーチェラ「歌唱力」論争について

セラフィムの「コーチェラ」でのパフォーマンスでの「実力不足」論争。

rollingstonejapan.com

コラムニストのチェ・イサクさんがツイートしたこちらが、今後のKPOPを考える上でも示唆に富むなと思い、許可もらって訳します。
(ちなみに、私も両ステージ見ましたが、一週目のステージがすごく良かったと思いました。もちろん、後半で歌は危うかったですが、それは今後経験を積んで上手くなっていくだろうと思いました)

 

まず初日のステージ後のイサクさんのツイート。

セラフィム、コーチェラ最高だ。 勢い、迫力、ライブ、パフォーマンス、サウンド、演出、スタイルすべてが良かった。 Kポップアイドル特有の「毒気」というのがどれほど格好いい可能性を持っているかを見せてくれた。 彼女たちの恐れと克服の物語がどれほど真実で、その資格があるのか、皆を納得させる。 すばらしい華やかな公演だった。

そして「実力不足」の論争が批判に止まらずエスカレートした後、翌週の2回目のステージ後のツイートがこちら。

こちらの長文ツイートの訳です。

(ここから)

セラフィムのコーチェラの1週目の公演が終わってこのツイートをした後、昼寝をして起きたら…同じ公演を見たんだろうかという引用が多く寄せられて驚いた。 友達からはあなたがルセラフィムをそんなに好きだとは知らなかったという話をたくさん聞いた。 そうだね.. 私がいつからそんなにルセラフィムが好きだったんだっけ…

「ハイブによく見せようと思って書いたのか」という反応も多かった。 断言するが、私ほどハイブによく見せようとしないKポップ関連のライターはいない。 無難だった2週目の公演が終わった今。 もう一度考えても私は1週目の公演が良かった。

建国以来最大の歌唱力をめぐる論争。 オンラインに接続する度に、ルセラフィムの歌唱力を評価するグループトークに入ってきた気分になった。 主に出回った映像は、トーン&マナーを掴めなかった最初の曲と、体力が崩れた最後の曲だった。 一部は全体を代表するのだから、この部分で特に歌ができなかったのが歌唱力の議論の言い訳にはなりえない。 しかし、いくつかの場面で評価を終えるには、長所があまりにも多い公演だった。

Kポップは立体的なジャンルだ。 パフォーマンス、スタイル、アートそれぞれ独自の魅力と文脈がある。

セラフィムのコーチェラでの公演は、莫大な投資と準備過程を経て作られた形だと分かる。 1週目の公演では、華麗なKポップコンサートの中でも、最も華やかで厳しいオープニングメドレーレベルの公演が約40分間続いた。

演出もオープニング級で、パフォーマンスの強さもオープニング級だった。 一度でさえも息が詰まるオープニングメドレーを3回連続したわけだ。 ルセラフィムはただ踊りながら歌わない。 絶えず舞台を走り回り、コメントもほとんどなく公演だけをした。 ダンスを画期的に減らしていたら、当然歌がもっと上手だったはずだ。しかし、ダンスを除いてルセラフィムがコーチェラで何を見せればいいのだろう。 Kポップは踊る音楽であり、ルセラフィムのパフォーマンス能力は非常に優れている。

常識的に、息を整える時間が十分だったら歌唱がもう少し安定的だったはずだが、1週目にそうしなかった理由は何だろうか。

私はルセラフィム側が推し進める、公演だけのエネルギーと演出的完結性を選び、今回の議論は、本質的にその選択の結果だと思う。 私はこの選択が完全に間違っているとは思わない。

そして、Kポップが歌手たちにあまりにも多くのことが要求され、強固化された「声帯分業」の歴史に正直でなければならないと考える。 ルセラフィムがこの「分業」をもう少し精巧にしたとすれば、この程度の歌唱力論争はなかったと見る。

K-POPは楽しむ音楽というよりは「やり遂げなければならない」音楽に近い。 適者生存の無慈悲な生態系で生き残った歌手たちが、殺伐と磨き上げた歌とパフォーマンスをミスなく撮影した映像で国境を越えてきた。

そのため、Kポップ公演の基本的な情緒は悲壮感だ。 この悲壮感はモニターの中、そして情緒の共感がある国内とアジア公演では有効だが、西欧圏のミュージックフェスティバルの舞台では毒になったりする。 言葉のように違う空気の中で「やり遂げなければならない」公演をしつつ、観客のレスポンスを引き出そうと努力する歌手たちの姿はしばしば気の毒でぎこちないように見える。

セラフィムは1週目の公演では未完成だが、コーチェラの「空気」に打ち勝つ姿を見せた。 簡単ではないことだ。 悲壮さを失わずに観客と呼応し合う余裕を持ったBTS、BLACKPINKのような歌手たちがKポップのトップティア(最高位)に分類される理由だ。

楽しいショーを作るために多くの装置が作動した。 バンドの編曲は重くてシャープなドラムサウンド中心であり、そのビートが醸し出す高調感とスピードに合わせて公演が行われた。 ルセラフィムのメンバーたちのボーカルは普段より太くて高く、体格がしっかりしているダンサーたちと共に絶えず隊列を変え、歩いて、走って、止まってパフォーマンスをした。 立体的な空間構成と絶え間ない転換を計算した電光板グラフィックも美しかった。

何よりも準備をし過ぎでありながら、ダサくなかった。 この華やかさが悲壮さを覆い隠していた。 ハイブが具現しようとする「(K)ポップ」のアイデンティティが何なのかを推し量ってみることもできた。 その躍動感が興味深く新しかったし、素晴らしいという気がした。

1週目の公演の目的が挑戦と冒険だったとすれば、2週目の目的は安定したライブだった。 歌唱の邪魔になりかねないと判断したのか、公演の力と流れの軸だったバンドサウンドが薄くなった。

公演でサウンドが変わったということは、すべてが変わったという意味だ。 オープニングにコメントを入れて、演奏を長引かせて息を整えるタイミングを適切に作った。 コール&レスポンスを誘導する声を自制し、呼吸が乱れないために以前より舞台の動線を慎重に使い、パフォーマンスがシンプルになった。

セットリストは同じだったが、1週目と2週目の公演は完全に違った。 ライブが比較的安定的な2週目の公演をより高く評価する意見が圧倒的多数のようだが、それでも私が1週目の公演がもっと良かったと話す理由は、楽しかったからだ。 悲壮な公演は多いが、楽しい公演は珍しい。

昨年、Weverseコンサートで見たルセラフィムの舞台には「コンサート」にふさわしい呼吸とエネルギーが足りなかった。 まだステージには未熟な、コンセプトが素敵でダンスが上手な新人女性アイドルとだけ感じられた。

しかし、コーチェラ1週目の公演で凍りつかずに極限のメドレーを続ける姿を見て、1年前とは格が変わったという気がした。 何もアドリブはなかったはずのコール、英語ができないメンバーたちの自然なディクション、気が抜けるほど疲れた状況でも無意識的に電光掲示板の映像の真ん中を探す姿たち…

できなかったことをやり遂げるために、どれほど熾烈な練習と準備をしたかが描かれ、終始胸が熱くなった。

自分たちがどれほど素敵な公演を見せることができるか、どれほど多く練習したのか、自らを誇りに思い期待する、恐れのない表情と動作も良かった。

野外ミュージックフェスが興味深い理由は、「変数」があるからだ。 この「変数」は音響上の事故ではなく、予想できなかったエネルギーと楽しさに出会うことだ。

セラフィムは1週目の公演で確かに良い変数を見せてくれた。 限界を知りながらも、それを乗り越えようとする試みも感動的だった。後半に体力が底をつき、完全に成功することはできなかったが、それだけに人間的だった。

私はKポップが、その過程にも拍手を送る音楽だと信じている。 歌唱力の問題はそれなりに批判されるが、この公演を準備しながら成し遂げた彼女らの成長と努力についても語られればと思う。

コーチェラは「アメリカのローカル」ミュージックフェスに過ぎず、オリンピックではない。 ルセラフィムは国家代表ではなく、夢多きデビュー2年目のアイドルだ。

Kポップのパイが大きくなり北米ツアーが普通になる流れと連動し、今年は多くのKポップ歌手たちが米国野外ミュージックフェスの公演を予定している。 まだ経験が足りないため、今回のようにライブでの議論が起こる可能性もあるが、ルセラフィムがコーチェラで見せようとした挑戦と試みが、彼らにとってタブーではなく、教訓と踏み石になってほしい。

そして、最善を尽くして公演を準備したルセラフィムが、彼らのモットー通り、これからも恐れずに歌って踊ってほしい。