はちみつと焼酎

BTS 방탄소년단/SUGA. 日本語訳など

自我の脱構築と再構成 D-DAY FINAL 演出分析の要約&感想

オープニングVCR、最初のショット


aamuugunaa.postype.com

ユンギのD-DAY ファイナルコンを分析した、韓国ARMY @lulupeeluluyap ニムと@Confetti1204 ニムのこちらの文がひっっじょうに面白かったので、許可をいただいてご紹介です。お二人が見たのはFINAL初日、二日目。
3時間にわたる会話とのことで、かなりの分量です。全訳は諦め、私が考えるポイントを中心に要約版を書いてみました。量もそうですが、演劇や心理学、哲学などのワードもちりばめられていて結構大変でした。

こうやって引用表示になっているのが要約部分。

私のコメント(★部分)も入れました。力作をお借りして私自身の振り返り記にもなるかなと。飛ばしてしまったところもあるし、誤訳もあると思うのでその前提でどうぞ!

 

プロローグ

・アイドルのコンサートとしてはもちろん、ポップアーティストのコンサートとしても前例のない演出だったのではないか。

・ユンギが自分のスキールとステージの支配力に対する確信があるから、追求できた

・ユンギ本人の自信もそうだが、ARMYをある程度信じて、その高い理解度と受容性を信じるからこそ、ここまで押し通すことができ、これほどの挑戦をできたのだろう。

・ARMYたちは この劇(公演)のコンテクストも全て知っていて、理解して、また熱心に応援し、サポート準備が全面的にできている。これほど忠誠度が高く理解度の高い観客を集めるのは簡単ではない。

・今回はBTSのコンサートとしても久しぶりのコンセプチュアルなステージだった。

★ユンギが自分の能力はもちろんのこと、観客=アミへの信頼がなければできなかった舞台だということは本当に私も感じたところ。そしてファイナル三日間参加して、アミも見事にその信頼に応えて一緒にコンサートを作ったと思いました。

全般的な舞台演出について

・左はSUGA(青の照明)、右はAgustD(赤の照明)。ステージ下の「部屋」で、左側がやはりVCRに出てくるSUGAと同じインテリア、右がAgustD。

★みなさん、こちら気付いてました…?なんとなく「あの部屋」だとは思っていたけど、そういう区別があったことは気がつかなかったです。そして下に降りてくると見えないので必死(笑)

脱構築・異化効果

・観客に対する信頼と本人に対する信頼.. この二つで、目の前でだんだん解体(脱構築していく過程を見せる。舞台自体もただ骨組みに近いパネル。 その舞台さえ一つずつ解体されて。 縁者と観客が「ある世界」として合意した(お約束した)「そのステージ」をなくしながら進行する。

・最初の雨の音から始まり、没入感がすごいショーではある。没入感はAMYGDALAで横たわったSUGAが運ばれながらそのピークを迎える…のに最後は「全てショーでした」というように暴露する。

・繰り返し登場する「カメラ」

・SHADOWではフロアの観客が、舞台のダンサーたちと同じようにSUGAにカメラを向けている。歌手が"Don’t shine on me"って歌うときに、(観客のカメラフラッシュが)光る。それがある面では観客参加型演劇のよう。

公演に没頭させる仕掛けと、それを強制的に引き離す効果、常に観客は「他者」なのだということを思い起こさせる。

・観客が最初から「実験演劇だ」ということを分かっていれば良いが、大衆的な芝居を見ようとして実験演劇だったら相当戸惑う。それと同じようなことを、この規模の商業的なショーで行うのは相当思い切ったこと。やはりアミと自分への信頼がないとできない。

 

アメリカでツアーが始まったときに、シンプルなステージ、そして舞台が天井に上がっていくという演出が面白いなあと思いました。IUのパレットでやシュチタで「これまでの『アイドル』のステージに囚われていたけど、ソロだと新しいことができた。自分も観たことのない演出」というようなことをいってたけど、ほんとそうだなと。

★それにしてもここで「脱構築」というポストモダン哲学のキーワードが出てくるとは。この後の分析でも何度もそういうワードが出てきます。

最初のVCRとへグム

「本来の自分」に戻るという意味での「治療」ではない

・VCRでは自我を分ける。ピアスをして白い服を着た短い髪のSUGA、ピアスもせず化粧もせず短い髪にジャンパーを着ているミン·ユンギ、傷跡の跡が残っていてパーマヘアをしたAgustD

・雨の中で倒れているのはミン・ユンギ。そこからSUGA のBTSとしての活動の回想。→ヘグムのスタート。

・へグムはこれから様々なことを「解禁」するという宣言。

トラウマの治療というより、(三つの)自我の脱構築と再構成。そのために無意識下に抑圧されているものの「解禁」が必要ということ。だからへグムがオープニングの曲。

・トラウマの「治療」「回復」というのは近代の啓蒙主義的な観点では。「本来の自分」という本質的な状態、「正常な状態」が存在し、それに戻ることができるという理性中心の信念に基づくもの。でもこのステージは脱構築的なもの。ポストモダンな演出。

★アルバムからステージに至るまで、ある意味での「治療」のようなものだったのは確かだと思うんですよね。でもその治療の結果は、「元に戻る」とか、患部を外科手術のように切り取って終わり、という意味ではないというのは確かです。その傷をかかえたまま前に進む、という感じでしょうか。そしてそのためにどうするか…→脱構築ってことかと。

 

宗教的メタファー

・垂直のイメージ

冒頭の見下ろすカメラは「神」の視点。最後のVCRではミニチュア。フロイトの「超自我」。

・上にまっすぐ伸びて四角い空間を構成する照明などは圧倒感と崇高美。

・ダンサーたちに担がれての登場。SHADOWのときのステージは十字。聖職者と芸術家は、苦痛に苦しみながらも最後には昇華して他人を助ける行為をするという意味で近い。

・死ななければ生き返ることもできない。 (へグムとAMYGDALAで) 葬式から始まって、復活のないキリストで締めくくる。神的なものと結びつかず、人間として終わった。(後述)

★最初にダンサーから抱えられて出てくるのは、韓国の伝統的なお葬式だなと思いました。十字架などのキリスト教的な宗教のメタファーも盛り込まれているのでは、ということです。ここはユンギの意図と演出家の意図とどんな感じなのかビハインドを見せて欲しい。

 

・ユンギが体験した心の傷や過去の出来事をこの公演を通じて昇華させてすっかりよくなった。、これ以上その過去の苦痛はない…という意味でこの劇(公演)を作ったとは思わない。ただ自分のこういう面を解放させて、解体(脱構築)した後にそのすべてを自分として受け入れて共存を選択したという見方。

大吹打、Agust D、Give it to me

・大吹打を歌うAgustDは、「克服すべき対象」だと思っていたが、そうではなかった。対立的で異質的で、お互いに融和できない存在だというよりは、「この子はこういう人です」とただ説明する。

★ユンギ自身、SUGA/AgustDという名前と自我の分離ということについて質問されたときに「全部同じ人間です」と答えていましたので、そういう事だと思います。一人の人間の別な側面でしかないということでしょう。

 

不気味の谷

・Agust Dのときの3Dは「不気味の谷」が現れるようわざとリアルにしたり、本人の映像を使わなかったのでは。

・別の次元のミン・ユンギが大型スクリーン越しに、舞台の上と観客を見ている。

・Give it to meの手の動きも不自然。

「不気味さ」は無意識が変形して水面(意識)に出てきたもの。

・Give it to meで初めてステージのパネルが上昇する。大型スクリーンには歌手の顔は写されず、3Dの手。その手が操っているような演出。

★ここでも異化効果が使われていると。確かにあの3Dはギョッとするし「誰…?」ってちょっと笑ってしまいました。意図していたもの、という説明で納得です。なんか頭に残りますよねあれ…。

★過去や自分の深層心理を探るなかで、「不気味さ」が一つの手がかりになる。「そこに何かがある」と。

 

Seesaw,SDL,People pt2

上昇するステージのパネル

・それまでの歌詞が成功への渇望が中心だとしたら、ここからは、愛と別れに対する人間関係についての話

・ステージのパネルの上昇。普通は分からないように舞台転換をするが、あえてみせている。

・金網のステージはとても不安定で未完成、歌手が危険にさらされているように感じる効果も。

・こうやって「全てをみせる」演出は、現場で見るとよりショッキング。

・普通、ステージは「見上げる」もの。歌手も、政治家も、宗教指導者も。

・ステージを降りた瞬間「人間」になる。こういうところを全てみせることは内面の解放であり、本人の弱い部分をみせているのと同じ。

★ステージがどう変遷していくかについては、オリガさんのこちらの図解が秀逸なのでお借りします。

 

ステージの変遷。左の図の番号のパネルが、対応する曲のときに上昇。右の図は上昇後のステージの形。

SDLで初めてステージの下に降りてくる。左側の「SUGAの部屋」。大型スクリーンには、ブラウン管越しのSUGA。SUGAと呼ばれる人物は常にカメラで撮影されブラウン管越しの存在。しかもスクリーンの映像は鮮明じゃない。

 

 

Moonlight,Burn it

Moonlight

・Moonlight の歌詞。「何曲入るか分からないけどとりあえずやってみる」という。アルバムの最初の曲にそういう歌詞を入れてきて驚いた。しかも実は後で本人が「何曲入るかは分かってた」と。今回の劇(公演)にも似た演出で構造。「合意された偽物」

・D-2作成時に今回の公演のことまで想定してたとは思わない。ただ挑発的な歌詞だと思っていたが、ここでステージとつながるとは思わなかった。ぞくぞくした。

ユンギは天才だけど論文を分析して理論的に構築するというより、非常に感覚的で本能的な天才。彼が本能的に動くとそれが理論と符号する。

★D-DAYアルバムだけじゃなく、三部作全てが今回のコンサートに有機的につながってくるように構成する。それを最初から意図してたというよりは、感覚的にそれができてしまうユンギは天才…。私が感じていたユンギの天才性に関して、言語化してくれました。

★そもそも「天才」って言葉が乱発されがちだからあれなんですが、ユンギが音楽・作曲の天才か?と言われるともっと天才的な人はいるよなあ、と思うんです。特にメロディーメイクに関しては。ユンギの天才性はこういう総合的なプロデュースみたいなところで発揮されるんじゃないかと。本質をつかんでそれを作品として出せる力。

・この曲でSSIBALのパフォーマンスに「小学生か」とか、否定的な反応もあるようだが、これはステージで叫ぶことで一つのタブーを破るという象徴的な意味がある。そもそもアルバムに入れるときにメンバーたちの反応で入れるかどうか迷ったけど入れた、というエピソードも。

・観客があれほど大声で、長く叫んだりはしない。でもその瞬間に何かから解放される体験をする。とても楽しくて特別な経験になっていた。コンサートはやはり「経験」。

★あのSSIBALにネガティブな反応があるとは思いも付かなかった…w 残念なのは韓国語が私の母語ではないので、どれだけのタブー破り感なのかがいま一つ分からないところ。でも本当に気持ち良く楽しい体験だったのは確かです。アミたちも「もうすぐだ!」ってワクワクしてたし、ユンギもにっこにこだったしね。

★タブーを破る、観客たちに自分を解放させるという意味で、ユンギが一番心配して訴えていたのは日本公演ではないだろうか…。それでも三日目は納得の出来だったかと。

・Burn itの歌詞はセットリストの真ん中に位置するのに相応しかった。全て燃やす、そして「過去に戻ってみよう」と。

二つ目のVCR

・ユンギ:記憶の中の存在 /SUGA:Lost in Memory/Agust D:The Chaser

・加えたタバコを取る女性の手はアミ?以前はアミのためにやめたけど、いまは自分でタバコを吸わない。SUGAはタブーを破らない存在

・タブーを破るのはAgustDだが、最後に鏡に映るのはSUGA。生存のために「弱い存在」を殺したが、どちらも自分だった

★VCRは録画したものでじっくり見ないと…。ここまでをまとめると、アイドルとしてのSUGA(常にカメラ越し、タブーを破らない)、AgustDはタブーを破る存在でSUGAを追跡して殺そうとする…がそれもやはり自分でもあることをAgustDも理解するってことか。

・拉致される場面。まるでトラウマもしくは過去の記憶が突然襲ってくるような感じを受けた。治療できる、正常な状態があるという幻想にこだわると、こんな風に過去は突然おそってくるもの、とでもいうような。ユンギがそのように過去が突然思い出されてしまう瞬間を知っているんだろうと感じた。

・「大丈夫じゃない」。大丈夫だと思ったとしたら、それは何かが抑圧されている。治った、以前の自分とは違うと思うことはかえって危険なのではないか。

 

 

SHADOW

・ユンギの歌詞には以前から複数の視点、第三者の視点があった。「あいつはいっつも大邱の話をする」とか。でもShadowでは(複数の視点が)直接会話する。「こうなると思わなかったのか?」「お前が望んでたことだろ?」「俺がお前で、お前が俺だ、分かったか?」。

・この話者はAgustDというよりは自分の中の「不安」や「焦り」。不安というものは常に一生あるものだ、この歌はそれを受け入れる過程。そういった影を抱えて生きていくということ。

★「ほかのメンバーの歌詞にはこういう第三者視点みたいなのはない」と言われてなるほど、と。そこが少し皮肉っぽいユンギの歌詞の独特の味にもなってますね。自分を常に客観視する(してしまう)感じ。

ムーダンの儀式

・Shadowのステージはムーダン(巫堂みたい。ムーダンが儀式で霊・神を召喚すると、それぞれの声で話し始めるような。この公演は「治療」というよりムーダンの儀式みたいだった。

★韓国のドラマや映画などで見たことある方もいるかもしれませんけど、韓国ってこのシャーマン(ムーダン)文化がまだまだ残っているようです。うちも祖母が相談したり、占ってもらったり、お札を貼ったりしてたな…。ちなみにムーダンは女性が多い。

★SHADOWで突然「影」が話し出すところが、ムーダンの「儀式」で、神や霊が乗り移って話し出す感じだという指摘はものすごく納得。オープニングの葬儀を思わせる演出からすごく土着的な宗教のメタファーがちりばめられてる。

観客がカメラを向ける図

スマホのカメラ。2階から見るとフロアの観客たちもダンサーたちと同じようにカメラを向ける。この状況こそが本人が恐怖を感じている状況だということを再現する。ショッキング。

★これはもう、曲をつくるとき、あるいはMVをつくるときにステージでやることを考えてたんじゃないかと思う。コロナで中止になったMOTSコンでやるはずが、数年越しでの実現じゃないだろうか。

 

Cypher,Ddaeng,HUH?!、LGO

・このパートはヘイタ―、敵に対する警告、怒り。SHADOWで言及された不安は、内部からというだけじゃなくて、外からの要因もある。その「外」に対して怒りを表現する。

・怒りをうまくコントロールして表現するのも、感情の解放。

・このメドレーは剣舞のよう。外に向かって剣を振り回している。その剣が正々堂々としていて健全。啓蒙ヒップホップ(笑)。弱者をからかってディスるのではなく、「上」に向かう。

★啓蒙ヒップホップ(笑)。BTSとしても外への怒りが健全だというのは本当にそう。ミソジニーまみれだったり、マウント取ることが目的のディスじゃない。私はヒップホップシーンに詳しいわけではないけど、こういう部分は海外(英語圏)のリアクション見ても評価されている部分のようです。

・怒りの表出の後のLGO。「怒るだけ怒った?じゃあ人生を続けよう」。「ファーストスラムダンク」で主人公が号泣した後に「泣くだけ泣いた。バスケをしよう」という場面を思い出した。人間の普遍的な感情。

★LGOは音源で聞くと、自動的に涙腺が緩む曲なんですが、コンサートではもう必死で涙が出る暇がなかったです。自分の声をユンギに届けたい一心(笑)。音源では本当に切々と、寂しく聞こえる曲を、コンサートではとても幸せそうに微笑みながら歌うのがたまりません。

 

Snooze,Dear my friend

利他心・自我の拡張

フロイトは「((精神治療の)完全な治癒とは健全な利他心」と言っている。この言葉がそのままSnoozeに当てはまる。それまで自分の内部にフォーカスしていたが、初めてはっきりと他人が出てくる。同じ夢を見て同じ道を歩いている人たちに、いつでも寄りかかって良いと声をかける。

・利他心とも通じるが、「自我の拡張」でもある。過去あれだけ苦しかったときに助けてくれる人がいなかったというのを恨むのではなく、そういう人が自分にもいれば良かったのに、と。そして今の自分が過去の自分を助けてあげるように後輩たちをサポートする。

・それだけ余裕ができたということでもあるし、後輩に対する責任感。

★ナムジュンの言う「1.1人分の大人」ということにも通じるなと思いました。本当にヒョンラインの大人へのなり方が素晴らしくて私もこうなりたい…。

最善の選択だと信じるしかない

Dear my friend(原題は「どうだったかな」)も、その友人を罵るものじゃなく、自分がした選択に対する未練。AMYGDALAの「最善の選択、次善の選択」という歌詞にもつながる。「あれが最善だったんだろうか」と繰り返す。

・人はどうしたって最善ばかりを選択できない。自分の選択が「最善だった」と信じて進むしかない。時には振り返ってD-DAYの歌詞のように傷をえぐりながら。

ユンギは情が深い。だから自分の選択を後悔する。愛の器が大きい

・愛の器が大きいのに、両親に音楽を反対されて地方から出てきて、孤独だった。だからその「親友」をとても頼りにしていたんだろう。

・純粋に音楽のために情熱を燃やした時代、「汚いけど美しい」時代の「自分自身」に対する懐かしさを込めたのでは。そしてあの時私がもっと賢明な選択をしていたら、「どうだったかな」という。

★セトリ、何か変えてくるだろうなと思ったけど、まさかこの曲を入れるとは…。初めて人前で歌うこと。そして本人の声で歌うことの覚悟。そして初日から涙を浮かべていたユンギと、歌詞を完璧に歌ったアミたちの声。その間には確かに感情の共有、交感があって感激しました。

★未練、という感情がユンギの歌詞からはよく感じられるんだけど、執着じゃなく、情の深さなんですよね…。

ドラマチックなサウンド

・D-2の最後に、それまで洗練されたサウンドだったのにいきなりすごくドラマチックな、「ダサい」ぐらいのサウンド。(演奏した)Nellの先輩たちにもっとドラマチックにしてくれと頼んだというエピソードからも、あれはあえてのダサさ。だがそれがいい

・この公演でも美しく終わらせない。そういうサプライズみたいなのが好き

★ユンギはやろうと思えば最初から最後までスタイリッシュにできるけど、そこをしない。照れなのか、そういうのが好きなのか…どっちもかな。ベタなことはむしろ照れずにできるんだな。ベタだけどつまらなくならない、そのギリギリのラインを攻めてくる。(見る人によってはベタすぎて嫌いな人もいるだろうとは思う)

 

AMYGDALA

炎の意味を自ら変えた

・蓮の花、涅槃、炎(による昇華)。 仏僧たちの火葬のよう。アルバムでも繰り返し出てきた三つのモチーフがすべてこの曲のステージに入っている。

BTS花様年華からユンギは火や炎を担当していたけれど、そのときは怒りの火。自分に火傷を負わせる火だったけれど、ソロではその火を涅槃、昇華という風に意味を変えていった。ある意味ユンギがパン**を超えたなと(笑)

・バンドの最後っていうのは大体悲惨で、あそこまで高いところに昇ったら、後はそのまま燃えるか墜落して炎上しかない、そんな文章があるけど、ユンギがその「火」を涅槃の炎に変えたので、これからが楽しみ。

★AMYGDALAでステージの下で燃える炎は本当にそんな感じ。Burn itで叫んだ「全部燃やしてしまえ」という時はまだめらめらと怒りが込められていたけれど、ここは熱いんだけど静かな感じ?

タブーを破る存在

・KPOPへの批判のフレームとして、ファクトリーメイドだ、ニセ物だということがあるが、そういう西欧からの批判への異議として、KPOPアイドルは絶えず真正性を証明しないといけない。しかし今回のツアーは、本人がそれを意図したかしないかに関わらず、これまでのアイドルの定石だったものをすべて壊すような試みだった。

・AgustDという、スラングや悪口が歌詞に入ってもいいような基盤ができていて、それを理解するファンがいたから、今回のような破格的な舞台をつくれた。それでも「ここまでやるか」というものをみせてもらった。

・このステージが歴史的なものになると思い、とにかく直接見たいと思った。すでに演出についても知っていて期待値が高かったのに、実際に見るとそれでも後頭部を殴られた気分。

★AgustDはタブーを破るもの、破壊するもの→脱構築の装置だったんだなと改めて。

★そういえば今回People pt2で「SUGAとAgustDをシンクロさせる」とも言っていたし、脱構築からの再構成が三部作の最後のパートになるのも納得。それが図らずも初めての正規アルバムで、表に出るタイミングになったというのも巡り合わせか。

 

部屋の外へ出る

・AMYGDALAのMVとコンサートがつながっている。MVでは部屋に閉じ込められていたAgustDが部屋の外に出る。そのきっかけはARMY。AMYGDALAの後、会場のアミのスローガンが一つ一つ映し出される。ユンギへの愛を込めたメッセージたち。そして最後のVCRの終わりにドアが開く音が聞こえる。

・AMYGDALAで火の中で白い服を着て歌うユンギは、人間の欲や感情をすべて浄化させているよう。へグムではいろんな欲の奴隷、という歌詞があるがそういう欲を浄化させる。燃やされるのは生け贄のようでもある。それで一度死んで蓮の花のように再生あるいは再構成させる。

・だからAMYGDALAで美しく終わると思っていたのにまだ残っていることに動揺した。

★コンサート本編はAMYGDALAで終わる。一連の物語として本当に美しい締めくくり。

脱構築が終わって炎ですべて燃やして涅槃へ…しかし涅槃って「炎(煩悩)が消えた状態」なんだよね。だから涅槃に行きそうで戻ってくるアンコール部分も納得できるかもしれない。炎というか煩悩は消えなかった。悟りを開いてお釈迦様になるわけではなく(笑)、ちゃんと戻ってくる。でもちょっとだけ涅槃には近づいたんだろうか。

最後のVCR,D-DAY,Never Mind,そしてThe Last

ミン・ユンギを見れるのは数秒だけ

・一つ前のVCRで倒れたAgustDが、ミン・ユンギの姿で起き上がる。扉を開けて出ると、巨大なSUGAがその部屋を見つめている。そして「Tony Montanaのセイフティーマッチ」でミニチュアになった部屋を燃やす。その状況を見つめているまた別のミン・ユンギがいる。ここでも異化効果

・カメラが映すのはミン·ユンギでも、ブラウン管に現れる人はSUGA。ミン·ユンギがカメラというフィルターを 経た瞬間、SUGAになる。ブラウン管を消すと反射された画面にはすでにSUGAが座っていて、そのSUGAが立ち上がって、 ドアを開けて出てきてステージの上に登場して D-DAYを歌う。

私たちは結局ミン・ユンギを見ることができない。見ることができるのは、The Lastが終わって背を向けて歩いて舞台を去る最後の数秒間だけ(Weverse Magazinで演出家が語っている)。その瞬間はカメラはすでに消されている

・常にカメラが回され、イメージが消費されるのがKPOP。たくさんファンにみせてあげたいと思いながらも「本当の自分」が消耗するもの。それでコンサートでみんなにみせているのはSUGAだと言っている。



★この入れ子形式、メタにメタを重ねる方法とか改めていろんな人の分析・考察を読みたい(自分では無理w)。

★この振り返りもせずすたすたと歩いていくラスト。最初見た人はぽかんとしただろうなあ…。それが日本公演では振り返らないけど手を振ってくれて…。ミン・ユンギを見せてはいないけど目撃させてくれてはいるんだよね。数秒だけ。

 

観客は「他者」でありこれはショーである

・AMYGDALAで終えれば、とても美しい一つの劇として完結したはずなのに、D-2のアルバムと同じように最後にがらがらがらとブレヒト的エンディングを用意した。

・AMYGDALAまでを通じて観客が入り込んで、ユンギの物語で苦痛や様々な感情を感じたけれど、やはり「他者」なのだと。これはショーなんだということを最後にみせているよう。



・SHADOWで向けられる無数のカメラ。カメラのレンズはよく銃口のメタファーとして用いられるが、サイファーの演出では実際の銃口のイメージがスクリーンに出てくる。そして最後のThe Lastでやはりたくさんのレンズが監視カメラのようにユンギを様々な角度から狙っている。

・カメラで取り囲まれた場所に本人が歩いて出てくる。

美しい結末を壊す

・The Lastはユンギの曲のなかでも最も自分をさらけ出している歌詞が出てくる。対人恐怖症や鬱など。聞くと辛くなるようなこの曲をD-DAYとNeverMindという、客がある意味すっきりするような曲の後にもってきた。順序としてはSHADOWの後が相応しいんじゃないかと思った。

・でも最後に持ってきたのは、ハッピーエンディング、のようなものはなく、また繰り返すのかもしれないということ。完治するというようなものではないこと。美しい結末を意図的に壊している

・“future’s gonna be ok” では終わらない。それはウソになるから。

→それでも決心はして生きていかないといけないじゃないの!

最終日に“future’s gonna be ok” してくれましたね…。ウソかも知れないけど、ハッピーエンディングを信じて生きていこうっていうメッセージだと思いました。優しい。

★最後の最後に振り返って手を振ってくれたのは、SUGAでもありAgustDでもあり、それが再構成されたミン・ユンギその人だと感じました。

自我の脱構築と再構成を物語としてだけではなく、舞台演出で見せきった。それを実現できるパフォーマーとしての能力、アミへの信頼。

 

まとめ

 

・トリロジーとして構成した3枚のアルバムを一つのコンサートでここまで完成度高く構成するというスキル、観客への信頼。

・それを初めて一人でやりきる。1秒もだれる瞬間がなかった。

 

★現場ではとにかくユンギのパフォーマーとしての力量にやられっぱなしで、演出の意図や分析なんかにはまっったく頭が回りませんでした。それでもぼやーっとではありますが、「これは…すごい……。観客への信頼がなきゃこんなことできない…」という感覚はあったんですよね。

★トリロジーのアルバムとこのツアーの構成が、どういう物語だったのかということに関しては、私の解釈をドラマに引き寄せてこちら↓

SUGAのD-DAYと「私の解放日誌」 - はちみつと焼酎

で書いてみたんですが、今回の分析とそう遠くない気がしています。